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「わかりたい」と「作りたい」

研究の性格、ひいては研究者の性向とか好みには大きく分けて「わかりたい」タイプと「作りたい」タイプの2通りがあると思う。「わかりたい」というのは音楽について、説得力のある体系だった説明と理解を求めようといった取り組み、「作りたい」というのはそういった説明力の如何よりは機能や有用性を重視し、音楽を扱うための有用なシステムやツールを作ろうといった取り組みを指す。和声理論や GTTM のような音楽構造理論を構築すること自体が「わかりたい」研究の典型的な例であり、それをコンピュータ上に実装しようというのもこれに含まれる。一方、大量の音楽データを対象に、機械学習などの汎用的手法を用いて特徴量を抽出し、音楽情報検索などのシステムを作ろうというのは「作りたい」研究の例と言える。もちろん両者は相反するわけでも、互いに別物というわけでもない。実際の研究は「わかりたい」、「作りたい」どちらの面もあるのが普通であり、どちらにより大きなウェイトがあるかという程度問題ではある。それでも全体として眺めると、性格的な色分けがかなりはっきり現れるように思われる。

現在の音楽情報科学は「作りたい」研究が全盛と言える。多くの優れた研究が行われ、その成果は研究面のみならず、実用に供されるに至っている。それはそれで素晴らしいことである。翻って20年ぐらい前、音情研立ち上げの頃を振り返ると、「作りたい」研究も見られたが、「わかりたい」研究ももっと盛んであったように思う。時代とともに「わかりたい」派が後退していったのは、1つにはそれ自身が(少なくとも実用レベルに達するような)十分な成果をあげてこなかったこともあろうが、社会全般の変化も要因にはなっている。インターネットの登場と爆発的な普及、それに伴う音楽情報処理へのニーズの拡大と多様化、音楽の大規模データの整備や提供、確率モデルや統計的学習手法の進歩と普及などである。そういった状況の変化が、研究の目標、性格、評価の観点などを、さらには参入する研究者集団そのものも大きく変えてきた。

さて、私自身は典型的な「わかりたい」派である。まあ時代遅れの遺物のようなものではあるが、その目から見ると「作りたい」派については、研究としての評価とは別に、必ずしもピンとこないことがある。「それによって我々は音楽について何を知りえるのか(どう便利になるのかとかでなく)」がどうしても気になってしまうからである。とりわけ、音楽の研究というよりは、何らかの汎用的手法を音楽にも適用してみようといった研究の場合にその感が強い。例えば情報検索システムの研究発表で、精度や再現率などの数字はいろいろ話されるのに、いざ「エラーになるのはどのような曲の場合か」のような質問してもはっきりした答が得られないことがままある。どうもシステムの全般的評価さえすればそれでよい、という感じである。これは結果の分析や考察が不十分ということではあるのだが、それ以前に、音楽を自分とは無関係な「モノ」として扱っている印象があり、その内容に立ち入って、さらには自分自身で聞いた感覚で考えようといった認識が欠けているように感じられる。端的に言えば、音楽に対する愛情や思い入れが感じられないのである。(もちろん、そうでない研究・研究者も多いが。念のため。)

「わかりたい」とはどういうことを考える1つの観点は、音楽の専門家(作曲家や音楽分析などの研究者)にどれだけ使ってもらえるか、そこまでいかなくても関心をひけるかである。現在の「作りたい」システムの多くは、一般的な(つまりは専門的でない)ユーザをターゲットとしており、そのニーズには応えうるものであっても、おそらく専門家の関心をひくものではないだろう。これは単に彼らの要求水準が高いからといったことではない。彼らの判断は(どの程度意識化できるかは別として)安定しており、信頼性が高い(最近は「客観的な評価」が過度に(むしろ誤って)強調されるが、私は 100人の一般ユーザの評価よりは、数人の専門家の判断のほうを信頼する)。しかしシステムが扱う特徴量や概念は、低レベルであったりアドホックであったりして、彼らの思考のそれとはかけ離れている点が問題である。つまりシステムが何をやっているか(何を考えているか)、どうしてそのような結果になるのかがわからない状態である。彼らを納得させるには説得力のある理論的枠組を示すことが必要であり、それが「わかりたい」の実現にほかならない。

とはいえ、これは別に「作りたい」研究を否定しているわけでも、そういった方向を目指すべきだといった話でもない。現時点では一般ユーザ対象でもやるべきことはいくらでもあるし、むしろそちらのほうがインパクトは大きい。(どうせ少数の)専門家の覚えがどうであろうと、「作りたい」というのは単に新しい領域を開拓するといっただけでなく、従来からの音楽の有様そのものを変えていってしまう可能性も秘めている。ワープロなどの文書システムが「書く文化」そのものを変えてしまったのと同様である。電子楽器や MIDI の登場は従来にはない音楽をもたらしたし、最近では Vocaloid 等による歌声合成が新たな「文化」を形成しつつある。しかしそういった音楽そのものの変容よりは、本当の影響はもっと目立たないところで生じるかもしれない。古くは、蓄音器の発明は我々の音楽との接し方を一変させた。以前はナマ演奏で聞くしかなかった音楽が、携帯し、いつでも聞けるようになったのである。検索システムやレコメンデーションシステムのようなものも、一見単なる便利なツールに見えるが、実は我々がどのような音楽に接するか、さらにはどのような音楽を好むかにまで影響を与え、律していくようになっていくかもしれない。それがいいことかどうかは別としても。

今後の音楽情報科学にとって、「作りたい」派と「わかりたい」派がうまく連携していくことが重要である、みたいなきれいごとを言っても始まらないだろう。実際にはこれは非常に難しいことに思われる。私自身、「わかりたい」派であることは変わらないだろうし。ただ、何派であれ、音楽情報科学を研究していく上では、音楽に対して十分な愛情と尊敬をもって接していただければ幸いである。

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